

中尾哲彰回顧展
-創造力の冒険-
代表作



開催にあたって
去る3月8日、
陶芸家・中尾哲彰は銀河を巡る永遠の冒険に旅立ちしました。
「お父さん帰ったら何したい?」
「焼き物作りたい。」
その答えは、旅立つ前日も変わりませんでした。
焼き物に捧げたその人生、そこまでには知られざる学者を目指す若き青年としての姿、そして、銀河釉の礎となった数々の膨大な焼き物がありました。
類稀なるその人生。
彼を作り上げた数々の作品とともに中尾哲彰の人生を巡る回顧展の一部をオンラインでも開催しようと思います。
中尾哲彰の目指した夢、そしてその想いを心に灯していただけるとこれほど嬉しいことはありません。
中尾哲彰の生涯
この動画は、葬儀の中で流したものです。
息子と娘たちによって作られたこの一本の動画には、中尾哲彰という人間の一生が詰まっています。

1. 旅の始まり、学者の卵として
「世の中で何が起こっているか知りたかった」

1952年、玉峰陶園を経営していた父・昌幸のもとに窯焚きの息子として生まれた。
「もう、いつもおばあちゃんが謝りに行ってた」
哲彰の妹がそう言うように、小さい頃の哲彰少年は、集団行動が苦手でよく喧嘩をしては母親が近所に謝まりに回っていたそう。幼少期は飛行機や機械などをいじるメカニックになりたかった。
彼が少年期を過ごしたのは1960年代。当時アメリカでは公民権運動やケネディ大統領暗殺があったり、日本でも学生運動があったりと世界が動乱していた。
「世界で何が起きているか知りたかった」
高校生ながら哲学書を読み込む日々だったが、高校の運動会では警察署に出向き警官服を借りて、学生運動のパロディを主導するほどに。


ここで一つの大きな出会いがあった。
「社会の矛盾について、舌鋒鋭く切り込み、追求しようとしていた。まるで求道者のように、次々と名のある大学の研究者に教えを求めていったが、満足できず、やっと慶應義塾大学商学部の石坂巌教授に出会い、教授のゼミに落ち着いた。」
友人の弔辞の言葉には、そう記されている。
恩師・石坂巌先生の推薦の言葉。
「中尾君はたんに陶芸家であるだけではありません。陶芸の美の追究者であると同時に、社会の共同生活のうちに人間的真実を認め、その実現化を日指している人物です。
たとえば5月中旬、佐賀の武雄で“21世紀を見つめて”というシンポジウムがひらかれました。中尾君はそこで「21世紀の社会と文化」のテーマでの基調報告者でした。もう一人の基調報告者、数名のパネラー、コーディネーターの人たちはすべて、各大学の先生方でした。つまり大学の教授たちと、まともに論じ合える識見と知識を、もちあわせているということです。
中尾君は今でも若いのですが、たいへんな読書家です。陶芸の仕事が終わってからの深夜から朝方にかけてが、読書の時間です。ウエーバーの主要な著作はすべて読み、マルクスの思想にも通じ、口を開けば、そのような人はもちろん、サルトルやヘーゲルなどを論じて、二晩ぐらい寝ないでも平気です。もっとも焼物の火をいれた時には、3日ぐらいは寝ないそうですが。」


2. 陶芸家としての始まり
知られざる前・銀河釉時代

「学問の世界が思い描いていたものとは違った。」
学者として世界を変えることを夢見ていたが、もはや、そこにあったのは就職予備校としての大学の姿だった。もうそこには心を満たすものはなかった。そして、実家に戻った。
「親父が無心に土と格闘している姿を見て」
こうして彼は、生きる道を陶芸の世界へと変えた。
当時、玉峰陶園は花器を作っていた。数十年勤めていた職人さんによると、高校生ぐらいから工場にろくろなどをしに邪魔に来てたらしい。
初めは、職人さんからろくろの手解きを受け、花器の流れを継承し、素朴な色合いの花瓶を作っていた。


作品名「聖」
日展に初出品、初入選した時の作品は「白磁」だった。土物から磁器の時代へ。作家としての道はここから始まった。
作品名「豊」
「青磁」
中国へも何度も渡り、歴史的に価値があると言われる釉薬の再現に取り組んだ。ありとあらゆる釉薬を調べ尽くし、彼の元へ釉薬の相談をしに来る陶芸家が絶えなかった。


作品名「暁光」
「辰砂」「牛血紅」
陶芸において発色が困難な釉薬の一つ。これが可能になった時、他の陶芸家からこれで十分飯が食っていけると言われた。ただ、そこで歩みを止めなかった。
「数百年も昔の過去の中国で出来た焼き物を、今やって、なんの意味がある」
彼の求めるものはこの歴史の先、まだ見ぬ未来にあった。

3.総合としての銀河釉
「星空から見れば国境線なんて見えない」

32歳の時、突然網膜剥離が彼を襲う。
失明に近い状態で1年近く過ごした
美を追求する芸術家にとって、絶望的な病気だった。
「あなたはもう陶芸家として終わりね」
そう言われることさえあった。
失明するかもしれない、その絶望と不安の中、彼の脳裏に浮かんだのは暗闇を照らす夜空の星々のイメージだった。
「もし、もう一度ちゃんと見えるようになったら、夜空の星々のような焼き物を作って、同じように絶望の暗闇の中で苦しんでいる人々に、『元気になってよ』と希望の光を届けたい」
むしろそうした想いに、彼自身が救われたのだ。
共通の趣味が車だった、20代から中尾哲彰を知る焼き物仲間は語る。
「中尾さんに『改造した車、あっちにあるから』と言われ、薄暗い倉庫の方に案内された。歩く途中ジャリジャリと音がして、こんなところに砂利があったっけ?と思っていたが、中尾さんが電気をつけた瞬間背筋が凍った。自分が今、床一面に敷き詰められた膨大なテストピースの上に立っていることに気がついたのだ。」


それは、釉薬のみの研究ではない。「中尾土物」そう名付けられた特注の土は、地元の土屋さんと共に研究し辿り着いた、銀河釉にふさわしいキャンバスだった。
玉峰窯には5基のガス窯がある。色ごとに使い分けられるその窯は、どれも銀河の結晶が出るように改造されている。
そして、そこにはもちろん哲学、社会科学を研究してきた彼の平和への願い、想いが込められている。
「星空から見れば国境なんて見えない」
ついに、その想いを体現する銀河釉という表現を得たとき、まさに中尾哲彰というこれまでの人生が1つの結晶として析出したのだ。「銀河釉」、それは総合としてあったのである。

作品名「遥なる長安」
「茜銀河」
それは、何度も色を重ねて窯に入れることでやっと出る、銀河釉の基本五色を超えた色。生前、「銀河のオデッセイ」と共に絶対に手放さずに大切にしていた作品。
さまざまな色が折り合い調和する景色とその形状は、かつての中国・唐のあらゆる異文化が行き交い寛容だった国際都市・長安の平和の時代への憧憬が宿っている。

作品名「神々の聖地」
価値観の多様化と絶対的な価値基準を失った近現代、異なる価値の葛藤の中で、「神々の闘争」の中でいかに生きていくか。
そうした神々の共存への想いを、異なる宗教でありながら同じルーツを持つ一神教の誕生の地である砂漠、岩場の景色に寄せた。
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哲彰の父・昌幸の手記にはこうある。テストピースが五千を超えた頃、やっとそれらしきものが姿を現した。
「十数年に及ぶ研究の中で、
宇宙空間に広がる無数の星たちを思い起こさせる釉薬が生まれた時、私はこれを『銀河釉』と名付けました。」
ついに彼の代名詞となる釉薬が誕生した。
「なんで結晶釉に挑戦したの?」
「一番難しいからさ」
そう答えた父の言葉が今も脳裏に残っている。

作品名「銀河のオデッセイ」
これほどに大きな作品となると、一人で釉薬を掛けることすらできない。亡き親父と一緒に作った思い出の作品でもあった。
結婚する前、妻・知佳子が工場に遊びに行った時に、ちょうどこの作品を作っていた。何かアドバイスはないかと尋ねられ、「麦わら帽子が空からふわっと舞い落ちたような柔らかい曲線だといいんじゃない」
今や銀河釉を代表する作品となった「銀河のオデッセイ」だが、ここから新たな旅が始まった。

作品名「異教の友へ」
学問における彼の研究領域の一つは宗教社会学だった。
異なる宗教、ひいては価値観を持つ者同士がどうすれば争いから免れるか、そうした問題意識がずっと彼の中にあった。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著書は、学生時代からの相棒だった。
「どうすれば支配のない社会を実現できるか」

作品名「東洋的『無』」
「西洋に伍する芸術、思想を東洋からぶつけること」
彼の中にはそうしたもう一つのテーマがあった。
社会科学、哲学の探究の末、西洋の行き詰まりを予感していた彼は、東洋がもつ「寛容」の精神、そこに次なる平和への可能性を見出していた。
オリエントのブルー、
夜空のような夏銀河の濃い発色の作品群は、海外でも高く評価されてきた。
作品名「明日への神話」
「あらゆる情況が逼迫し、混沌の度を増す現代、銀河釉がこのような時代に差す、世界と未来への一条の光となることを願って」
かつて絶望の淵にいた本人が暗闇に差す光に救われたように、苦しんでいる人々にとって、そして難しい時代にとって希望の光となるように。
彼の願いにも似た想いは、今や作品を通して光を放ち続けている。


作品名「銀河」
「武器のない、国境のない世界」
どうすれば人類のこの夢のような社会を達成できるか。不可能に見えるこの未来を前に、彼は極めて前向きであった。
「大丈夫、人類の歴史はまだ400万年しかない。これからさ。」
100億年以上前に誕生した宇宙に比べれば。
まさに天文学的な壮大なスケールで人類の歴史を見ていた。

作品名「銀河のオデッセイ」
「『愛』と『自由』のやさしい共同体」
それが、中尾哲彰が夢見た世界だった。
その夢は、人類の未来に託された。
そう、彼の夢はこれからも人類の歴史と共に旅をする。

4.物語の続き
「これから一緒に見果てぬ夢をみよう」

「朝日を浴びて、ロクロ再開!
朝の光は綺麗だね。
お父ちゃんが紐付きねと言ってますが」
2022年1月12日の家族LINEには、妻・知佳子からの言葉とともに、この写真が送られていた。
酸素チューブをしながらでも焼き物を作り続ける。まさに最後まで、陶芸は彼にとっての天職だった。
「真っ直ぐになってるか見て」
珈琲碗皿の取っ手をつける時にそう頼まれることが増えた。彼の目は再び視界を歪めていた。
「もうこの時にはお父さんはよく見えてんなかったんだよ。」
まだ焼かれていない、作り残されたままの珈琲碗皿の生地を見つめながらこぼれた妻の言葉。晩年も、文字通り命を削りながら作っていた。


「茶碗に始まって茶盌に終わる」
もう大作は作れない。
肉体が弱り大きな作品が作れなくなる中、彼が作り続けたのは茶盌だった。そしてこれは、彼にとって決して後退ではなかった。今になって誕生する見たことのない色の銀河釉の数々、もう一度釉薬にその面白さと新たな可能性を見出していったのだ。そうして生み出された色の多くは、今だに名前さえつけられていない。
最後の珈琲碗皿。
珈琲と本を欠かすことのない父が辿り着いた、この形。銀河釉の代名詞である珈琲碗皿。
陶器市が終わった6月、窯から出てきたのは流氷を思わせるような冬銀河だった。それが面白くて立て続けにもう一度窯を入れた。そして、それが最後となった。


銀河を受け継ぐことを夢見て、
一人の青年が空を超えてオランダからやって来た。
ステン・ヴァンダーレン
当時まだ、娘はオランダ、息子は東京にいる頃。
全く日本語を話せなかった青年と、哲彰とその妻・知佳子との不思議な修行生活が始まった。
日本に来て三日目、
まだ一度も、工場で並んで教えてもらう前に、哲彰は倒れた。
車椅子姿になった。
それでも、託し続け、受け取り続けた。
焼き上がった焼き物を片手に、そのやりとりは病室でも決して止まることはなかった。


「お父さんを超えろ」
そうやって、息子・真徳は育てられた。
今では、大学院に通いながら窯を焚く日々。
まだ入院していた時、父の書斎を整理していると一枚の紙が出てきた。24歳の中尾哲彰が書いた機関紙『慶應プロジェクト』の文章だった。
「その内容に、強い衝撃を受けました。自分が大学院で研究しようとしているテーマと全く一緒だったんです。」
同じ血が通っていることを知った瞬間だった。
小さい頃はよく工場に手伝いに行っていた。
ロクロの音を聞きながら、私は焼き物に敷くハマを叩いて、社会のこと、哲学のことについての話を聞くのが好きだった。それが二人にとって大切な時間だった。
今はその時の景色、昔手伝っていた時の記憶を頼りに、銀河釉と格闘する日々。


弱っていく肉体、その未来を見越し、若かりし頃に作り残していた大作たち。それは今も、玉峰窯の皿板の上に佇んでいる。
いつか、次の世代が銀河釉を完全に焼けるようになる日まで。
その時にはどんな姿となって日の目を見るのだろうか。
きっとその日まで、この窯を見守っていることだろう。
「中尾家の展示室を思い出します。そこには、美しい焼き物の作品が並び、哲学の本が積まれ、使い込まれた心地よい椅子が置かれていました。柔らかな光が差し込むその部屋で、私たちは銀河釉のコーヒーカップを手にしながら座っていました。」
終わらない夢の続き、これから一緒に旅をしよう。

to be continued...



5.今、無数の星々となって
その光は今もどこかで
この知らせを受けた瞬間、私はすぐにオフィスの本棚へ向かいました。そこには、あなたのお父様が作られた花瓶が、大切な場所に置かれています。ちょうど、妻や亡き祖父の写真の隣です。その花瓶に触れながら、あなたのお父様と人生の一部を共有できたことの特別さを改めて感じました。
2015年に佐賀でお会いしたことは、本当に運命的な出来事でした。お父様の温かい友情、深い知識、そして卓越した芸術性は、これまで出会った人の中でもひときわ強い印象を私に残しました。コーヒーを飲みながらジャズを聴き、日本の政治史について語り合ったことを覚えています。お父様の工房で、私がろくろに挑戦したときの、あの情熱と忍耐強さも思い出します。ご自宅の食卓でご一緒した食事のひととき、猫たちを優しく撫で、さまざまな興味深い訪問者を紹介してくださったことも忘れられません。そして、博多で拝見したお父様の展示会では、その類まれなる才能によって生み出された作品の崇高な美しさに、心を奪われました。
今、ご家族がどれほどの悲しみの中にいらっしゃるか、私には想像もできません。どうか、私の想いと祈りがあなたに届きますように。そばにいることができないのが残念でなりませんが、いつか近いうちにお伺いし、お父様を分かち合ってくれたことへの感謝を直接お伝えできればと思っています。
お父様は、本当に素晴らしい方でした。
アメリカ・40代より
3月の葬儀から陶器市の準備、終了まで本当にお疲れ様でした。葬儀以降、それまでアナログ人間だった私達夫婦が、毎日"銀河釉"のホームページやインスタ、ユーチューブを閲覧し、遠方より応援しています。もっと早くこの情報手段を利用すれば良かった、と後悔の日々です。
中尾哲彰氏と私達の交流は50年以上になります。若き日20代前半の頃、"読書会"と称して中尾宅に良く集いました。一晩中語り明かし、お母様が朝食を用意して下さった事が何度も。黒猫は50年前からずっと存在し、窓から出入りしていました。名前もユニークで"チャーチル""ガンジー"など政治家の名前でした。今はネルソン君ですね。
「優しい共同体」という考えは当時の彼の言葉の中にありました。「武力は武力を生む、武力では世の中変わらない」「俺は陶芸家ではなく、一人の陶工になりたい。技術を極めその作品の中に自分の"想い""願い"を表現し、それを多くの人に伝えたい」
彼の信念は50年前から決まっていて、知識や経験、さらに家族の力で太くなり、一途に生き抜いたのですね。そして今新しい芽が伸び始め、若葉が輝いています。これから大きく枝を伸ばし、さらに大きな木へと成長して行く事を願っています。この回顧展は類い稀なる彼の人生が実に見事に凝縮され、分かりやすい表現で感動しました。世界の多くの人々に彼の"想い"が伝わる事を願っています。長くなりましたが、皆様
岐阜・70代より
お父様は、私がこれまで出会った中で最も素晴らしい方の一人でした。真の職人であり、芸術家であり、同時に哲学者でもありました。
彼は世界に対して常に開かれ、好奇心を持ち続け、その作品を通じて世界のさまざまな部分をつなげたいとよく話していました。
お父様と出会えたことを光栄に思います。
改めて、心よりお悔やみ申し上げます。
東京・50代より
私たちにとって、中尾哲彰さんと、また彼のご家族と過ごした時間は、日本での最も大切な思い出のひとつです。
たった一年間の武雄での生活でしたが、皆さんは温かく私たちを迎え入れ、時間を共有し、いつも変わらぬ優しい笑顔で私たちを受け入れてくださいました。
たとえマイクが中尾家でのタケノコ掘りで鍬を三本も折ってしまったとしても…!あの日一緒に掘ったタケノコは、今でも深く思い出に残っています。
それ以来、あれほど美味しいものには出会えていません。
中尾さんと過ごした日々の中で、私は彼が類まれなる人柄を持つ方であることを知りました。
謙虚でありながら卓越した技を持ち、哲学的でありながら極めて実践的、そして何よりも驚くほどに優しく、自己犠牲を惜しまない方でした。
新しい考えや人、物事を学び、理解しようとする情熱、そして自身の経験や時間、家を惜しみなく分かち合うその姿勢は、私だけでなく、彼に出会ったすべての人々の心を打ったことだと思います。
私は今でも「銀河釉」の作品を大切にしています。中尾さんが惜しみなく工房に招いてくださり、私たちが作ることを許してくださったあの作品です。
中尾さんは時間と細心の注意をかけて、銀河の輝く美しいものへと仕上げてくださいました。
今も毎日、私たちはあの時一緒に作った皿を使いながら、あの日、拙い腕で何とか中尾さんを感心させようと頑張っていたことを思い出します。そして、私の未熟な「作品」を、まるで貴重な芸術品であるかのように丁寧に釉掛けしてくださった、その優しさを思い出します。
中尾哲彰さんの作品は、これからも変わらず美しさを放ち続けるでしょう。
しかし、その真の力は、作品を生み出した「中尾哲彰」という人物にこそ宿っていました。「言行一致」を体現し、言葉と行動を通じて世界をより良いものにしてこられた方でした。
中尾さんがいなくなってしまったことが深く惜しまれます。
心からのお悔やみと深い哀悼の意をお伝えいたします。
アメリカ・30代より
念願の佐賀行きまで残り1.2週間というところで中尾哲彰さんが亡くなられたと伺い、愕然としました。 そのことを知った時、流氷みたいな冬銀河の珈琲碗皿が手元にありましたので、ただひたすらに眺めていました。
こんなに素晴らしい作品を作られる方が亡くなってしまったことに、残念ながらお会いしたこともありませんでしたが、器を通じて強い喪失感を覚えました。非常に悲しく、悔しく、言葉にしきれない複雑な感情でした。私でもこんな強い感情に苛まれているところで、ご家族の悲しみを思うと胸が締め付けられる思いでした。
私には哲学も社会学も難しく感じて理解も乏しいのですが、確かに銀河釉の器を通してそれらの一部を感じ取ることができたような気すらしています。 この回顧展も読み進めていくうちにそれぞれの想いがあって、今のご家族やご友人がいて、今の銀河釉さんに繋がっているというストーリーがダイレクトに伝わってきて、気づけば涙が止まらなくなっていました。
中尾哲彰さんのお人柄や、ご家族たちと過ごした優しい時間をこの回顧展を通じて知ることができてとても嬉しかったです。 師匠であり大切なご家族を失われた今も、銀河釉の皆様が前を向いて受け継がれていく姿を見て感銘を受けました。
真徳さんもステンさんもご多忙かとは存じますが、まずは心身の健康を何よりも大切に!長くこの旅を続けられるように日々過ごされてください。 銀河釉の皆様をずっと応援しています。
神奈川・20代より
春の陶器市、そして先生の回顧展開催おめでとうございます。 先生の珈琲カップを片手に、オンライン展示を拝見しました。改めて先生が旅立たれたことを寂しく思いつつ、その歩みをこうして拝見できて嬉しいです。
ひとの手による緻密な研究と経験に基づき、しかし偶然の作用が最後まで出来栄えの鍵を握り続ける…そうした人と天のせめぎ合いから生まれるうつわの美しさ。更にその宇宙を、食卓やお茶の空間でのぞく壺中天の面白さ。広く豊かな作品には、哲学的な思索、陶芸への情熱、ご家族との絆も含め、先生の人生が息づいているように思います。陶器市期間中にはぜひ、現地のお店も訪問させていただき、先生の作品を直に拝見させてください。
今回、早速ステンさんのお茶碗を購入させていただきました。丁寧なかたちと味わい深い銀河釉の表情が魅力的で、一目惚れでした。素人のわたくしが申し上げるのは不遜ですが、昨年から一層腕が磨かれたようにお見受けします。ネルソン監督たちの新しい猫グッズも素敵ですね。ご家族の皆様の、益々のご活躍を応援しています。
佐賀・30代より
ただただ号泣しました。お父さんの幼少期からこれまでの事を聞けてとても幸せに感じました。私も、一度夢を断ち切った身であり、ネルソン監督繋がりですが、銀河釉と繋がることが出来ました。自暴自棄になりそうだった時助けてくれたのは珈琲カップでした。お父さんが頑張っている、自分も頑張れるそう言い聞かせて何とか踏ん張れました。いつも使う銀河釉のお皿を見て元気を貰っています。
お父さんの最期にご挨拶行けたこと嬉しく思いますし、佐賀に行った際にはお仏壇にお祈りさせてくださいね。この出会いはとても私の人生で重要であり、宝です。これからも中尾家応援しています!!
鹿児島・20代より
常に学び続け、生み出し続けたお父様の人生の一端を覗かせていただき、ありがとうございます。お父様の新たな旅の安寧を心よりお祈りするとともに、息子さんとステンさんの成功を願ってやみません。
東京・30代より
私が銀河釉に出会ったのは、高校生の頃でした。 当時はまだ陶芸について深く知らず、ただ「楽しそうだな」と思っている程度でした。けれども、銀河釉の作品に触れた瞬間、その美しさに心を奪われ、陶芸という世界に強く惹かれるようになりました。
それから自分で調べたりするうちに、陶芸の奥深さと魅力にどんどん引き込まれていきました。 今では美術大学で工芸を専攻し、自らの手で作品をつくる日々を送っています。
銀河釉との出会いは、私の進路や生き方に大きな影響を与えてくれた、かけがえのない出会いでした。 いつか佐賀の工房を訪れ、作品を手に入れたい。そして中尾哲彰さんにお会いしたいと願っていました。 突然の訃報に触れ、胸が締めつけられる思いです。心よりご冥福をお祈り申し上げます。 美しい作品の数々を、本当にありがとうございました。
東京・10代より
銀河釉を最初に知ったのは昨年でした。今年は有田へ行きます。残された作品を直に見たいと。後継のお二人の今後も折に触れ見守っていきたいと思っています。第二世代の銀河釉の完成を心待ちにしています。
茨城・60代より
初めて銀河釉を知ったのは、中尾先生とネルソンのショート動画でした。 猫好きなものですから、絶妙な位置にいる黒猫と陶芸家さんのやりとりにくすりと笑ってしまったのがきっかけです。
その後、YouTubeで銀河釉のキラキラとした器たちを見たとき、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出しました。生まれが岩手かつ父の趣味が天体観測(彼は自分のことを「星屋」と言います)なのもあって、星が身近だった子供の頃、頭の中で繰り広げていた銀河の空想を思い出させてくれるような、本当に美しい作品だと思いました。 いつかは手元に銀河釉の作品をお迎えしたいな、と思いつつ動画を拝見しておりましたので、3月の訃報には大変驚きました。
今回の回顧展を拝見し、中尾先生の作られた作品たちがまだこの世に誕生するのを静かに待っていると知りましたが、いつかご家族の皆様の手で、その作品たちが銀河釉を纏うとき、その輝きはひょっとしたら旅立った中尾先生が新たに目にした銀河なのかもしれない、と勝手ながら感じてしまいました。 また、新しい銀河釉の作品と出会えることを楽しみにしています。
滋賀・30代より
心からお悔やみ申し上げます。 コロナ禍で心が弱り、気持ちが塞いでいた時にYouTubeでネルソン監督を背中に乗せた中尾哲彰さんの動画を見て、とても癒された事が銀河釉を知ったきっかけでした。
宇宙、星、銀河といったテーマが好きな私はそれからチャンネル登録してステンさんの頑張っていらっしゃる姿や中尾哲彰さんがチューブを付けてろくろを回してる姿を見て、いつか銀河釉さんの作品を購入したいと思い、(なかなか仕事の都合で有田へ行けず)去年の秋の陶器市にコーヒーカップと小皿を購入させて頂きました。
実際に手に取ってみると結晶の出具合やサイズ感など個体差があってどれも素敵で決めるまで30分以上これもいいなあれもいいなと店内で悩みました(笑) 以前テレビに真徳さんとステンさんが出演されて釉薬の比率や結晶が出る条件を数値化しようと試行錯誤されて、お父さまの想いを繋ごうとされている姿を見てとても胸が熱くなりました。 感情が昂って支離滅裂な文章になっているかもしれませんが、いち銀河釉ファンとして陰ながら応援しております。
福岡・30代より
私が銀河釉を知ったきっかけはYouTubeのある一本のショート動画。ろくろを前にしたお爺さんがもふもふの黒猫こと、ネルソン監督と共に素敵な焼き物を作る何ともあたたかい日常のひと場面。「にゃんがおる、(焼き物が)置かれん。」そんなフレーズが最高に大好きでした。
当時陶芸といった芸術品など縁もない生活を送っていた自分にとって、銀河釉を見たときはものすごい衝撃で、こんな星空のような器が存在するのか!本当に銀河だ!!と感動したのを覚えています。
実はその後Instagramをフォローし、日々お父さんやステンくん、お母さんや真徳さん、可愛い猫達と焼き物の投稿を楽しみに、いつか佐賀へ、陶器市へ足を運ぶことを夢見ていました。そんなある日中尾さんの訃報を知り、ぜひお元気なときに一度お会いしたかった、どんな方だったのだろうかと思っていました。
今回の回顧展を拝見することができてよかったです。中尾哲彰という1人の人間が駆け抜けた一生を知るきっかけとなりました。実は自分は幼少期に両親が離婚しており、物覚えがつく頃には父がおりませんでした。銀河釉を知ったときも、ご縁あって県外のお寺へ嫁ぐくらいの頃で、心細く感じるときにいつも動画を見て励まされていました。勝手ながら中尾さんのことをどうか遠くに住む父のように感じていたのです。一陶芸家、そしてみんなが愛するお父さん、そんな方だと思っています。
これからも中尾さんの銀河釉がたくさんの方を励ます一筋の光となりますよう願っています。誤って複数回送信となっていたら申し訳ありません。長文失礼いたしました。
福島・20代より
私は24歳のため、仕事で成功することが出来たときに購入しようと決意していました。初めて見たのはYouTubeでしたが、その後Instagramもフォローさせていただき、作品が出来上がる素晴らしさを感じていました。突然の事で、大変悲しく思っております。これからも素敵なものを作り続けてください。必ず買いに行きます。大好きな焼き物です。
20代より
この度はご冥福をお祈りいたします。一度作品を購入させていただいております。本当に素晴らしいと思います。これからも受け継がれていく事を祈っています。
岐阜・30代より
Youtubeのショート動画を何気なく見ていた時に、ちょうど流れてきたのが銀河釉の動画でした。 白い釉薬を素焼きした器にかけ、本焼きした後に出てきたのが、太陽の光に反射し、星空のようにキラキラと輝く、青い器でした。 「こんなにも綺麗な器が、この世に存在するなんて知らなかった。なんて美しいんだろう。」と、当時はとても衝撃を受けました。
その後銀河釉のホームページを拝見し、長い年月をかけ、美しい釉薬と作品を完成させた中尾先生の粘り強さ、そして信念に感銘を受けました。 銀河釉がきっかけで「私も人を感動させるような、素敵な作品を作ってみたい」と思うようになり、今では陶芸教室に通ったり、自宅に電動ろくろを設置したりと、作品作りに夢中になっています。
ステンさんと真徳さんがいつも投稿して下さっているYoutubeの動画もいつも楽しく拝見しています。 NHKの「SAGA SOUL -さが魂-」も拝見しましたが、お二人が真剣に銀河釉に向き合う姿を見て、「これからの銀河釉が楽しみだ。きっとお二人ならではの作品が生まれるのでは」と感じましたし、私もお二人と年齢が近いということもあり、「こんなにも頑張っているのだから、私も負けないように頑張らねば」と、作品を作る際のモチベーションにさせていただいてます。
いつか陶器市の際に伺って、この目で銀河釉の作品を直に拝見し手元に銀河釉の作品をお迎えしたい、そして中尾先生にお会い出来たらと願っていたので、今回の訃報には大変衝撃を受け、胸が締めつけられる思いです。 大変な中、このような素晴らしい回顧展の機会を設けていただきありがとうございます。 中尾先生の作品を拝見することが出来て、とても嬉しいです。 ご家族の皆様、お辛い状況の中だとは思いますが、どうか無理せず心身の健康を大切になさって下さい。
そしてこのような素晴らしい機会をいただき、ありがとうございます。 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
宮城・20代より
インスタで玉峰窯さんを見つけた時から心惹かれ、ずっと拝見していました。いつか窯元に行って生で銀河の輝きを見たいと思っていました。中尾哲彰さんがこの世の希望となるように、またご自身の希望としてこの銀河を作られたということを知り、確かにそうだなと思いました。中尾さんの銀河には心を癒し、満たしてくれるパワーがありました。
直接お会いすることが出来ませんでしたが、回顧展という形で中尾さんの生涯や作品への思いを知ることができ、大変ありがたく思います。これからもずっと、銀河釉のファンです。
佐賀・30代より
YouTubeのショート動画で、お父様が作った作品を作っているのをネルソン監督がそばで見ているものを見たのが銀河釉を知るきっかけでした。しばらく更新を楽しみに見ていたものの、お父様の容態が悪くなったりなどを知るのが怖くなってしばらく離れておりました。
久しぶりに拝見して、そうして回顧展のページを見て銀河に旅立たれたのだと知ったばかりです。とても美しい焼物を作っていらっしゃると素人目にも感じておりました。そのルーツがこうして拝見出来て嬉しく思います。拙い言葉ばかりで纏まらず申し訳ないです。
平和を思い作ってきた銀河釉を、ステンさんたちが継承して作ってゆくこと、それが私にはとても素敵で貴いものに思えるのです。完成した作品だけでなく、そうして形には残らずに受け継がれていくものも含めて美しいものを作っていらっしゃるのだと、そう思わずにいられないのです。これからも、皆さまの作品を楽しみにしています。
佐賀・30代より
空はどこまでも繋がってる。
まるで、夜空で輝く星のように
銀河釉は世界中の誰もが同じものを見て、
同じように感動できることを教えてくれました。
「苦しんでいる人や悩んでいる人の希望や励みになりたい」
中尾先生のご経験から生まれた銀河釉と、
そこに込められた大切な願い。
もし、心惹かれる輝きを見つけたのなら、
それはきっと星々があなたとの出会いを
待っていたからでしょう。
晴れた日も 曇った日も 荒れた日も、
あなたのために輝く優しい器が
そばにいてくれますように
大阪・20代より






